ぼぎわんも、来た

映画『来る』の原作『ぼぎわんが、来る』を読んだ。

『来る』は偽イクメン、ワンオペ育児、毒親、反出生主義あたりが混ざってできた『ゴジラ』みたいな映画だった。1章、2章、3章で異なる主人公それぞれに、「それ」が異なる形で襲い掛かり、「ぼぎわん」の正体は語られない。映画の2章では、香奈の「押し付けられた母役割」と「母性が欠落した女=実母の血」という呪いにフォーカスしており(黒木華が超よかった)、3章では、「望まれない子」である知紗と「それ」が「赤ん坊を殺した」野崎と「望んでも産めない」真琴の前に現れることになる(岡田准一小松菜奈が超よかった)。

一方『ぼぎわんが、来る』では、男性性の怪物性に焦点が当てられていた。

物語の後半、「ぼぎわん」が秀樹の下に現れた理由として、秀樹の祖母志津がその夫(秀樹の祖父)銀二を呪いぼぎわんを呼び込んだことが明らかになる。銀二は志津に暴力を振るい、子供も殺していたのである。家父長制の暴力がぼぎわんを招いたのである。

昨今(いつですか?)、このような男性性は批判され、「男らしさ」そのものが男性に期待されないようにみえる。しかし、実際のところ「男らしさ」は形を変えて社会から求められ続けているように感じる。従来の「俺についてこい」型の「強い男らしさ」から、コミュニケーション能力と優しさを備えた「新しい男らしさ」へと求められるものが転換しているのではないか。

古い「男らしさ」に強権性や暴力性といった負の側面があれば、新しい「男らしさ」にも暗い顔があるだろう。秀樹はその暗い面の典型として描かれている。コミュニケーション能力や優しさは実態がなく、「パパ友」や浮気相手に上滑りしていく。外面では「よい父親」を肥大化させながら、妻にその役割を押し付け、実際にはなんの役にも立たないどころか有害。新しい父性の地獄だ(映画の妻夫木聡も超よかった)。秀樹は、祖父の怪物的な父性という呪いを異なる形で受け継いだのである。

さらに、その呪いはもう一つ暴力的な男性性によって作られる。唐草である。映画では愛嬌があって気遣いのできる本当の意味での「新しい男らしさ」を「見せて」いた「津田」だったが(青木崇高が超よかった)、小説では香奈に言い寄るもののそれとなく拒まれていた「唐草」である。唐草は民俗学に入れ込み、家庭を持ちながら女癖の悪い男たちを軽蔑して、秀樹だけでなく香奈をも呪う。インセルというか非モテというか、近年よく言及されるような男性の暴力性を思い起させる。

ぼぎわんは、従来の家父長制の暴力を受け継いだ、新たな男性性の暴力によって「来る」妖怪なのだ。上っ面の優しさもモテない僻みも身に覚えがある。化け物にならないようにきちんと怖がっておきたい。

 

ぼぎわんが口減らしを具現化した名前のない妖怪とどう繋がるのかまでは読み切れなかったので今後の課題です。