激しく燃える火のそばで

激しく燃える火のそばで

 

厄介なものを掘り出してしまった。俺が掘り出すべき代物ではない。少なくとも見つけるべきだったのは、就活に二の足を踏んで、大学院に進んだような人間ではない。

研究室の椅子にぐっともたれてそれを睨みつけている。悩んでみるふりをしても、出てくる答えは一つしかない。指導教官に差し出すべきだ。それ以外にない。俺には手に余る。

しかし、先生はあれを上手く処理してくれるのだろうか。彼は、日ごろから何かというとあんなものは存在するはずがないと言って回っていた。イデオロギーの敵にも塩を送ることになる。今更、主張を曲げるとも思えない。

私たちが長年やってきたことは、個別具体的な諸物を並べて、そこから大きな流れを見いだすことだ。ああいうものは、その大河の端にある小さな水たまりのようなものに過ぎない。しかし、そうして切り捨てることが俺にはできない。

だから、小説を書こうと思う。論文は書いたことがあるが物語は書いたことがない。論文にならないものは、小説にしてしまう。

 

 

土と木とでできた部屋の闇に埋もれるように男が一人背中を丸めている。静まり帰った時間の中で唯一力を放つ焚火の赤が、黒茶けた壁と男の顔とを照らしていた。男は囲炉裏の灰の方をじっと見つめて、火箸で何かを書いている。男にとってこれだけが唯一今与えられている役目であった。

男はふと耳を外の長雨に向けた。男と世界とを家の中と外とに隔絶させていた雨である。その向こうから、大勢の足音と歌う声が漏れだし始めている。男は息を大きく吸い込むと全身に力を入れて家の外へと這い出で、そしてもう一度大きく息を吸い込んだ。雲の間を潜り抜けた白っぽい日光が目に突き刺さった。

「おかえり!」

男は思い切り、それは人から見ればぎこちない足運びなのだけど、思い切り光の方へ走った。駆け寄る先には沢山の笑った顔があって、今日の収穫を男の方に掲げ持って見せた。取れ高はまずまずのようである。

一群から数人が抜けて、男の方に寄ってきた。男の家族である。兄は中でも特段上機嫌だった。

「剛、火の番ご苦労様」

「ただ見とっただけやさかいご苦労ってことないちゃ。そっちこそ大丈夫やった?」

「大した雨やなかった。そういえばお前、今朝は体痛いって言わなんだぜ?」

「大したことないってことやちゃ」

男が小さくつぶやくと、兄も聞こえるかどうかという声でふうんと唸った。

「そうや、お前。土器を作るって話、泥猪のおばさんに話しといたよ。夕方だったらいつでもいいから、工場に来いやと」

「そう、よかった」

男は兄から目線を外したが、その顔は明るくなっていた。

 

「いやあ、よかったよ」

泥猪は粘土を捏ねながら呟いた。

「巧が少し前にねえ、死んだやろ。やから、うちでちゃんと正器作れるのは創だけになってしもて……。それやったら、村で器作れる若いのは一人だけんなってまう。やからねえ、剛君が作るって言うてくれて本当によかったがやちゃ」

木の実仕事も一段落した秋の昼下がり。泥猪の声は悲しみをはらんでいた。

「俺も結局狩りの一つもできんでこの年になってしもたんで、なんかやらんとなあとは思っとったんです。やから、泥猪さんがうんと言うてくれてよかった」

「もういいちゃ母さん。冬祭りまでにこの村どころか広海の分も作ってしまわんなんがや。ちゃっちゃと始めんまいけ」

どんよりした空気に嫌気がさしたのか、創は捏ね終わった粘土をござに叩きつけた。

「しかも、今年は兄さんの代わりにずぶの素人や。みんなが欠けた鍋で煮炊きしたいってんなら別やけど」

軽口を叩くと、創は早速粘土から一塊をちぎって延ばしていった。創の手捌きは鮮やかだ。延ばされた紐状の粘土が蜷局を巻き上げるとあっという間に器が現れた。のっぺりと転がっていた土塊に、生活を支えるための命が吹き込まれていく。自分のやるべきことはこれだと剛は思った。

それから剛は他の仕事もそこそこに土器づくりに没頭した。始めは器形を作ることさえ難しく、粘土を器にしては粘土に戻しまた器に作りを繰り返した。成形が形になれば次は文様付けである。紐や竹片などを表面に押し付けていくのだが、この力加減に工夫がいる。押しつける力が弱ければ文様がきれいにつかないが、強すぎると器の形を歪ませてしまう。

泥猪の指導は極めて丁寧で優しさに溢れていたが、創の態度は全く違った。自分の作業中は他のことに目もくれず、助言のただ一言もなかった。手を休めるときとなると、面白くなさそうな顔をして剛の器を不細工だ、五歳の私でもこんなに下手ではなかったとなじるのである。泥猪は見かねて剛を庇い、ときには創に幼いころの話をするよう誘導した。

何度も話したのは、自分が土器職人の父母の間に生まれて、同じく土器職人の兄からその教えを受けたという話だ。自分は物心がついたときから土に触れ、最初の玩具は粘土であった。巧兄さんは、本当に土器を作るのが上手くて、その造形美といえば装飾などつけなくても十分人心を震わせるに足るものだった。私は彼から遊びの中で土器づくりを学び、時間があれば土をいじっていた。兄さんは死んでしまったが、いつか自分は兄さんに負けない土器を作ってその墓前に供えるのだ。

ある日、土器づくりの帰りに泥猪の家で夕餉が振舞われることになったとき、創は兄の最高傑作だと言って一つの器を見せてきた。それは膝の高さよりも大きい深鉢で、すっきりした胴から大胆に張り出した頸の造形はなるほど見事だった。表面の文様も精密だったが、特に美しかったのは口縁の飾りで、土でできているのに炎のような動きが見えた。器を両手で優しく抱えるその顔はいつにも増して得意げだった。

創の態度を疎ましく思っていた剛もその見方を変えるようになった。その苛烈さは誇りと情熱の飛び火なのである。剛の心は、器とそれを作る手業と真剣な眼差しとの美しさに前にも増して注がれるようになった。

柊の花が咲くころには、努力も一応の形を成すようになった。成形を終えるという日、泥猪曰く神前に供えても問題がないという正器が一つできたのである。

これまで冬は憂鬱な季節だった。狩人が野山を駆け巡っては鹿や猪を携え帰ってくるのを横目に、自らの動かぬ脚を恨んでいなければならなかった。自分と同い年くらいの男たちはみんなすっかり自分で狩りができるようになっていて、自分の弟や妹さえも父の後ろについて山に入っていくのである。せめて獲物の調理くらいはできるようにと一通り覚えたが、人の獲ってきた肉はどこか苦々しい味がした。

今年はそんな後ろめたさを感じない。冬の透き通った日光を浴びて硬さを増していく器を見ていると、ついに自分も人の役に立つような形あるものを自らの手で創ることができるようになったのだという自信で胸が躍った。重さを忘れた足であたりを駆けた。

 

冬祭りは冬至に前後して行われる。海辺の隣村である広海から多くの人が干した貝や海魚、宝飾品や石材を船いっぱいに載せてやってくる。剛たちの村では、彼らにご馳走を作って出迎えて、一緒になってお祝いの宴会をするのである。土器の焼成は宴会に先んじて行われ村を挙げての行事となる。

賑やかな声の中、泥猪の家族と剛とで土器と薪を組み上げる。しっかり木組みができると、創はいつになく不安げな表情で黙ってしまった。

「どんなに上手く形を作っても最後まで無事焼けるかは火の神様のご機嫌次第や。最初に作ったのは割れる。そう思っとった方がいい。私のもそうやった」

剛が何とか宥めすかそうとすると創はため息をついた。

薪に火をつけると、泥猪が大きな声で歌い出した。創も続けて声を張り上げる。村に伝わる焼成の歌だ。なぜこんな歌を歌うのか、剛は昨年までよく分かっていなかったが、今は分かる。火神の恵みの気まぐれさから気を紛らわせるためだ。炎は冷たい北風をものともせず、激しい音を立てて舞い踊る。職人たちは、後ろで奏でられる笛や太鼓の音に背中を預けながら、鮮やかな赤を睨みつける。火が収まるころには一同は体中を汗で濡らしていた。

剛が消えかけた火に駆け寄ろうとすると、「待て」と泥猪の鋭い声がなった。

「ここからが本番や。ここで焦ったらみんな割れる」

そう言って泥猪はまた違う歌を歌い始めた。村人たちは飽きてしまって散り散りになり、泥猪以外の職人も疲れ果てていた。一人の声があたりに響いた。

しばらくして、泥猪はすっかり黒くなった薪をどけ、胸から息を吐くと剛を呼んだ。

「おめでとう」

剛の初作は果たして無事に焼きあがった。剛は足から力が抜けて煤けた地面へとへたり込んだ。

 

宴席の料理はその冬焼かれた新品の器で作られる。古くなった器物は後日祭事を執り行って送られ、代わりに新しい器が各家庭に下される。剛が作った鍋では、鹿団子と干し茸の煮物が作られた。家族は大変な喜びようで、一口食べるごとに、これが剛の作った土器の味かと、鍋をうっとり眺めたり表面の文様を撫でたりした。去年までは家族が獲ってきた獲物を食べるだけだったが、今年はその調理に自作の鍋が貢献したのである。この日の肉団子は、これまでの人生の中で最も美味に感じられた。

そんな賑やかさの中、客人の中の一団が泥猪の家族の方へと挨拶に出向いた。

「いやあ、創さんの器は実に素晴らしい。商いをするときどれほど助けられたか分からんわ。どこへ行っても喜ばれるんやちゃ。今日持って来た翡翠もそうやって手に入れたがです」

始めは剛も気に留めてはいなかったが、空気が変わるのを感じて目を向けた。

「お願いです。私を船に乗せてください。今、外の世界で起こっとること、本場の土器が見たいがです」

創が頭を下げていた。土器を形作るときのあの真剣な眼差しで。

「旅に危険は付き物やよ? 分かっとるんけ?」

「分かっとります。分かった上でお願いしとるがです。途中で海の底に沈んでも悔いはありません。春におたくで隆線の土器を拝見したとき感激いたしました。これこそ、兄がやろうとして果たせんだことなのだとはっきり分かりました。自分でも隆線を取り入れて見ましたが、なんか足らんがです。やらせてください。炎を、炎を土に映したいがです!」

叫び声が上がると、あたりはぎょっとして黙り込んでしまった。客人もしばらく黙り込むと大きく頷いた。

「あなたの気持ちはよう分かりました。いいでしょう。実は倅も修行に行かせようと思っとったとこながです」

客人が目配せをすると、後ろにいた青年が頭を下げた。肩幅のがっちりした大男で、突き出た額の下に気迫のある目があった。剛には見覚えがあった。そういえば、去年一昨年から度々村に来ていた男だ。なぜ祭りでもない頃に随分長いこと滞在しているのかと思っていたが、あれは泥猪のところに修行に来ていたのかもしれない。

「それは心強い。絶対に私たちで新しい土器を完成させんまいけ」

創の表情には未来への希望が満ち溢れていた。

 

次の日は雨だった。父と兄は客人を連れて狩りに出かけ、残りは祭りの後始末に出ていた。剛は独り、痛む背中を囲炉裏の火で温めながら、結局古鍋とは交換されないで、祭壇に飾られている自作の土器を眺めていた。

憂鬱だった。どうしてこんなに気が滅入っているのか自分でもよく分からない。雨のせいであることは間違いないのだが、おそらく昨日の宴席でのやり取りが気にかかってしょうがないのだ。要は、自分ややっと掴んだその人生と、何か掴みかけた創やその人生が全然交わらない別の世界のものだということがよく分かってしまったということだ。

自分の胸の中で悲しみと怒りとが交互に揺れ動いていく。そして、怒りがやってくるたびに目の前のしょうもない土塊を地面に叩きつけて土に混ぜ込んでしまいたくなった。しかし、もうその土塊は自分の手でどうにかできるものではない。あの器は、泥猪に教わり、創と作り、家族に祝福されて神前に鎮座しているものなのだ。

創は土器を手に取ると、そっと囲炉裏の方に近づけた。やはり中の方はよく見えない。晴れた日にしようかと躊躇ったが、勢いに任せようと小刀を持ちだした。

長いこと独りで炉の灰を弄っている間、剛には一人遊びができていた。自分の言葉の吐き出す音一つひとつに当てはめた文様を考えることだ。五十個ほどを考えてできるだけそれをシンプルな形に整えていく。自分の頭の中と日々消えていく灰の模様にしか存在しないそれらを組み合わせて、器の内側に刻んでいった。

なんと刻んだのかは、彼にしか分からない。なぜそんなことをしたのかも詳しいところは知り得ない。ただ、彼がどうしてもそのようにしなければ気が済まなかった、そのことだけは確かである。