夜市でしか息ができない

今日は久しぶりに人と会って話をした。「パラサイト」を観に行ったあと、東九条に行ってホルモンを食べた。

本当は東九条の界隈をぶらぶらする予定でいたのだが、私の方の体力が途中で尽きてしまって、夕飯時まで喫茶店に退避することになった。内臓に内臓を内蔵して、蚊も動けるような気温になると、ようやく私も本調子になってきた。

やはり、日本にも夜市があるべきだ。もはや熱帯化したというべき日本において、日中の活動は命にかかわる。一刻も早く夜市を開き活動を夜に移すべきなのだ。なぜ日本には夜市がないのか。

そもそも、日本では路上での商売がない。あったとしてもかなり限定的だ。道端の自転車は撤去されるし、ごみも道に捨ててはならない。ひとさまの道路は侵してはならないのだ。

東南アジア(くくりが雑じゃないですか?)で感じた居心地のよさというのは、このような規範からの解放であった。深夜の住宅街でも自宅カラオケ大会が催されているし、深夜バスでも通話をしていて、音楽を垂れ流している。極彩色の電飾と爆音とごみと食べ物のにおいが充満する夜市の中で、自らの迷惑がかき消され存在が許容されるのを感じた。

今晩の連れは日本の電車で口紅をさしたところ、親子連れに嫌味を言われたらしい。公共の場で化粧をすることと、悪口で他人の行動を制限しようとすることのどちらが非倫理的な行為だろうか。騒ぎ声のする車内と静寂を保たねばならないという抑圧にさらされる車内では、どちらにストレスがかかるであろうか。

私が東南アジアで見たものは観光客が知り得るだけの表層的なものにすぎず、実際現地の人も現状に困っているのかもしれない。他者への配慮を怠れば、真っ先にしわ寄せが来るのは弱い立場の人々だろう。しかし、他者への侵害を厳しく制限し、「自粛」を強いる社会がどれほど健全なものか疑問である。

政府は一刻も早く、熱帯先進国・車内通話先進国である東南アジア諸国に国費で留学生を派遣し、熱帯に適した生活様式と公共での振舞いのグローバル・スタンダードを獲得すべきである。そして、東南アジア諸国民を受け入れ、我が国の文化を徹底的に破壊することを強く望む。という熱弁で、連れの何らかの権利を侵害してきました。