半地下の家族以外の家族

「パラサイト」を観た。正直なところ、前評判がよすぎて拍子抜けしたというところはあった。というか、あの第三の家族はなんですか。聞いてないんですけど。あ、ポスターの足はこの……。

前に流れてきた話からは、上流の家族と下層の家族の対立の話だと思っていたので、他に家族が出てくるとは思わなかった。あの夫婦はいわば先住民だろう。家政婦ムングァンはパク家邸宅の1階以上(これは社会の上層の比喩であろう)と地下1階を行き来しながら、「上層」の人々に奉仕し、報酬を得る。その夫グンセは妻の助けを得ながら、「上層」とは隔絶した地下2階の核シェルターで上層のおこぼれを与る。彼らは、社会から完全にドロップアウトしてしまった構成員とその家族というものの象徴だろう。

キム家はムングァンを半ば無意識に半ば罪悪感を自覚しながら追い出して、地下1階(完全な地下と対比して半地下といえる)に入り込む。パク家の「一員」として優雅に振舞っていたムングァンは放逐され、グンセは社会から完全に遮断されてしまう。主人公一家は、邸宅の半地下に潜り込み、上層社会の構成員であるかのようなふりができる可能性(大学生ミニョクとの社会関係資本等を考えると「能力」というより「可能性」)がある、社会の最下層とは異なる半地下の家族なのである。このような「下層」内部間への微妙な視点は、比べて語られることの多い「万引き家族」にはないもので驚きだった。

グンセのムングァンへの復讐はキム家へと向かい、そのどさくさの中でギテクは「一家の主」ドンイクを衝動的に殺害してしまう。グンセがパク社長を「リスペクト」して、シェルターでの暮らしを気に入っていること、その攻撃が「最上層」パク家ではなく、自分の少し上キム家に向かうことなどは、不気味なリアリティがある(リアリティとは?)。

ギテクの殺人の動機は、映画の中盤終盤で複合的に練り上げられていくもので、物語の肝だろう。半地下という場所・立場の危うさ、いざというときに手を差し伸べてくれない「上層」への怒り。

中でも強く感じたのは、現状への憤りだ。自分が一見上層社会に馴染んでいるように思っていても、しみ込んだにおいで疎外されてしまう。なにかあれば、すぐに最下層へと転落し、家族を守ることもままならない。そのような半地下の立場に、自らが立たされている。なぜ自分はこの家パク邸宅の主人ではなく、そのような身分なのか。

このような現状への憤りは、経済格差だけの話ではなく、普遍的なものだろう。その点で、この映画は格差以上の射程を備えている。逆に言えば、経済格差は金さえどうにかしてしまえばある程度どうにかなるはずの問題だ。なくせるものならちゃっちゃとなくしてしまいたい。人権活動家として決意を新たにするのだった。

夜市でしか息ができない

今日は久しぶりに人と会って話をした。「パラサイト」を観に行ったあと、東九条に行ってホルモンを食べた。

本当は東九条の界隈をぶらぶらする予定でいたのだが、私の方の体力が途中で尽きてしまって、夕飯時まで喫茶店に退避することになった。内臓に内臓を内蔵して、蚊も動けるような気温になると、ようやく私も本調子になってきた。

やはり、日本にも夜市があるべきだ。もはや熱帯化したというべき日本において、日中の活動は命にかかわる。一刻も早く夜市を開き活動を夜に移すべきなのだ。なぜ日本には夜市がないのか。

そもそも、日本では路上での商売がない。あったとしてもかなり限定的だ。道端の自転車は撤去されるし、ごみも道に捨ててはならない。ひとさまの道路は侵してはならないのだ。

東南アジア(くくりが雑じゃないですか?)で感じた居心地のよさというのは、このような規範からの解放であった。深夜の住宅街でも自宅カラオケ大会が催されているし、深夜バスでも通話をしていて、音楽を垂れ流している。極彩色の電飾と爆音とごみと食べ物のにおいが充満する夜市の中で、自らの迷惑がかき消され存在が許容されるのを感じた。

今晩の連れは日本の電車で口紅をさしたところ、親子連れに嫌味を言われたらしい。公共の場で化粧をすることと、悪口で他人の行動を制限しようとすることのどちらが非倫理的な行為だろうか。騒ぎ声のする車内と静寂を保たねばならないという抑圧にさらされる車内では、どちらにストレスがかかるであろうか。

私が東南アジアで見たものは観光客が知り得るだけの表層的なものにすぎず、実際現地の人も現状に困っているのかもしれない。他者への配慮を怠れば、真っ先にしわ寄せが来るのは弱い立場の人々だろう。しかし、他者への侵害を厳しく制限し、「自粛」を強いる社会がどれほど健全なものか疑問である。

政府は一刻も早く、熱帯先進国・車内通話先進国である東南アジア諸国に国費で留学生を派遣し、熱帯に適した生活様式と公共での振舞いのグローバル・スタンダードを獲得すべきである。そして、東南アジア諸国民を受け入れ、我が国の文化を徹底的に破壊することを強く望む。という熱弁で、連れの何らかの権利を侵害してきました。

一生に一度ハシゴ

今日は初めて映画をハシゴした。暑さもあってか体力的には疲れたが、ほとんど同じ話だったので食い合わせはよかった。観たのは、「風の谷のナウシカ」と「もののけ姫」だ。

幼いことに金曜ロードショーで見て以来久しぶりに観て、ああここってこういうことだったんだと作品が鮮明になる。割とこういう人は多いと思うので、ジブリって妙なコンテンツだなと思う。

ナウシカ」はオープニング明けから、滅びゆく世界を旅する老剣士と美しくも恐ろしい森を冒険する少女が描かれて、世界観にぐっと引き込まれる。「もののけ姫」は、呪いを負った蝦夷の青年が呪いの根源を探るべく室町時代後期の大和へと旅立つというもので、最近の自分の興味にも近い。こんなん絶対面白いな。衣装や兵器、アクション、セリフなどもすこぶるかっこよかった。トルメキア兵とか唐笠連とか矢場くないですか?

両作とも悲惨な世の中で人々がどうにか生きようともがいているのだが、それが争いや自然破壊を招きじわじわと混迷の度合いを深めていく。もののけ姫ではマイノリティー同士が呪い呪われていく要素も出てきて、サンとエボシの決闘のシーンでは涙を流さずにはいられなかった(映画で泣いたの人生で3回目)。

一体どうすればいいんだ⁉ 暴力の連鎖が続いていく中で、主人公は争うな殺すなと叫び解決の糸口を探っていく。そしてついに臨界を迎えた自然が人間たちになだれ込み、終末が訪れようかという土壇場、主人公は自然からの収奪物を誠実に返すことで、調和の可能性を見つけ出す。

奇跡のスペクタクルが繰り広げられる中で、私はなんだか乗り切れなくなってしまった。駿、すこし無責任過ぎはしませんか。これまで、散々どうしようもならないって話をしていたのに、ちょっと取ってきたもの返したくらいでことが収まるもんなんでしょうか。

結末を最初から知っていたから予定調和を強く感じてしまったのかもしれない。子供に向けたものであるから希望を語りたかったのもあるだろう。しかし、誠実さというものに期待し過ぎじゃないだろうか。他にも女性とか自然とか、近代の反対にあるものに託し過ぎているというか。それが何を指すのかよく分かってはいないのだけど、戦後文化左翼の無責任さというのを感じた。

とはいえやっぱりジブリは面白いですし、マスクをもごもごさせながら腐海を見る機会ももうないと思うのでおすすめです。

頭が痛い

頭が痛い。

起きたときから既に痛かった。それでも色々軽作業をしているうちに治ったので、3か月振りに髪を切りにいって、図書館に本を借りに行った。

出かけた時間が一番暑い13時頃だったのがよくなかったのかもしれない。帰ったらまた頭が痛くなって気持ち悪くなってしまった。

酒を飲んだときと同じところが同じように痛むので、脱水気味なのだと思う。

今日は夕方から「T-34 レジェンド・オブ・ウォー」を観にいこうとしていたのだけど、取りやめて少し寝た。夕飯を作るのも面倒だったので、近くの中華料理屋で済ませた。夏に負けた。

思えば最近、日常的にこの種の頭痛に悩まされている。水の飲み方が足りないのだろうか。とりあえず信仰の対象としているポカリを買った。もうこの星は俺たちが知っている地球ではないと肝に銘じる。

後半は臥せってばかりだったけど、髪もいい感じになった(襟足だけさっぱりしておけばとにかくいいと思っている)し、読むべき本も確保できたのでひとまず今日はいいだろう。何より夏をなめると動けなくなってしまうことが分かったのは収穫だ。

 

 

今日の老後

今日は試験終わりに大阪市立東洋陶磁美術館に行った。

試験の会場は大阪駅の近くの高速道路の高架が刺さったビルで、そこから行きたいスパイスカレー屋までは歩いて行ける距離。またそこから美術館までは歩いて行ける距離だったので、結局3キロほど歩いてしまった。

カレー屋と美術館がある中之島は川の中州に古めかしい官庁や博物館が建っていて好みの場所だった。ゆっくり川や建物など見ながら散歩したかったが、しばらく引き籠って勉強ばかりしていた身には暑さが堪えそれどころではなかった。

陶磁の美術館に行きたかったのは、NHKの影響だ。前にやっていた焼き物がテーマの朝ドラと、ふと見た樂家(とても近所)のドキュメンタリーを見て焼き物にそこはかとなく心惹かれていた。今日は場所も近かったので来てみた。NHKの影響で焼き物を見に行くの、どう考えてもジジイだ。

陶磁器はよかった。文脈が分からなくても、ものの質感や存在感で訴えかけてくるものがある。展示物のほとんどが床の間に飾れそうな大きさの中で、甕が2つほどあった。デカい。やはりデカいと迫力がある。説明パネルによると、焼締めの自然釉による素朴な風合いどうこうということで、見てみてもなるほどそんな感じである。天目茶碗のメタリックな色味や青磁のぬぼっと怪しい雰囲気もよかったが、この甕も荒々しさの中に微妙な味わいがある。

さらにパネルを見ると、「越前焼」とあった。越前福井は地元である。そういえばこんなのあったな。

結局地元か。最近は地のものに目を向けようという意識が芽生えてきていて、当事者性をもって取り組むならやはり地元だろうと思うようになってきていたところだった。出かけていった先で地元のすばらしさに触れる。またジジイがやりそうなことだ。

とはいうものの、どうせ地元には帰らなきゃいけないっぽいし、とりあえず地元に向き合うのはそれからでいいかなと思っているので、今後しばらくは下宿先の京都の茶碗でも見てみようかと思います。