近視眼

近視眼で見る夏はきれいだ。歯医者の椅子の上で眼鏡を外し、外の景色を眺めながらそう思った。植木の緑は背景となり、木漏れ日が真ん丸になって踊り出てくる。光が揺れるたび、風が吹くのが分かった。

私は保育園のときから近視で、小学校に入るときには眼鏡をかけていた。低学年のうちから眼鏡をかけていると「メガネザル」と仇名される。高学年になれば、眼鏡をかける人も増えてきて何も言われないのだが、低学年のうちは着用者も少なく、語彙の貧弱な小童はメガネザルがどんな動物かも知らずそのように眼鏡の子をからかう。自分の眼鏡と近視はあまり好きなものではなかった。

しかし、最近は自分の目が好きになってきた。去年、クリスマスのプレゼントを買いに行くバスで河原町通りを南下していくとき、私はふと眼鏡を外した。車窓いっぱいにイルミネーションや店の明かりが煌めいていた。印象派の画家たちは目が悪かったんじゃないかという説を思い出した。こんなに町明かりはきれいなのか。

考え事や人の話で頭がいっぱいになったときも近視は役に立つ。眼鏡を外して入ってくる情報をぼやかすと頭が明瞭になる。近視をうまく使えるようになってきた。

こんなことを言っていられるのは私がマイノリティではないからだ。日本人の3人に1人は近視らしく、10人に1人しかいない左利きのほうがずっと珍しい。私はもう「メガネザル」ではない。それに、眼鏡とコンタクトさえつければ視力は矯正できてしまう。目が少し悪くても「障害」とは呼ばれない。

少し前まで、私は自分のことを「ヤバいやつ」だと思っていた。「ヤバさ」が改善したのもあるのだが、人と関わり世の中のことが少し分かって、自分の立ち位置がなんの問題もなくどうにかなってしまうものであることを知った。嫌いだった近視は支障にならないどころか役に立つものになっている。

自分の大丈夫さかげんに後ろめたさを感じるようになって、その後ろめたさが全く無用な自意識であるとも感じる。今はなにも分からくて宙ぶらりんだ。ただ、自分の「見え方」だけは、それが凡庸なものであったとしても、自分だけのものとして慈しんでやろうと思っている。