大きくなりすぎた北海道

関係者には不快な思いをさせてしまうかもしれないが、それでも供養のために書こうと思う。

北海道一周旅行を計画していた。車中泊をしながら1週間かけて札幌から旭川を通って網走・釧路へ行って札幌に帰ってくる予定だった。夏休みのみならず、資格の試験期間をもかけた計画だった。

学生のうちは無茶な旅をすべきだと思っている。学生のうちは学生のうちにしかできないことをやるべきで、その最たるものが長期の旅行だという発想から抜けられない。2年前には、ベトナムを1週間かけて縦断した。元カノが計画した卒業旅行で、彼はそこで買ったアオザイで卒業式に出た。それは私の学生としてのロールモデルの一つになったのだろう。そのときは計画も手配も任せきりだったので、自分の手で旅程を作らなければならないと心に決めている。

同級生や後輩が就職して金を稼ぎ、人生の駒を進めているように見える中(実際は色々苦労があるはず)、決まった休みを作れず研究と試験勉強に追われていると、自分が何をしているのか分からなくなることがある。そういうときに、試験が終わりさえすれば長期の旅行が待っているというのは、学生という特権的な身分を確かめるものだった。北海道の影を追うことだけで、春学期を歩き抜いた。

北海道旅行は大きくなりすぎた。引き籠っていた間に貯めた金は北海道で使い尽くしてしまう覚悟だったし、夏休みも旅行の事前学習に費やすつもりだった。他の参加者との熱量は乖離してしまっていたのかもしれない。ペーパードライバーだからと、人に運転を任せるにもかかわらずだ。

中学校の頃友人たちと行った京都旅行を思い出した。私が立てた旅程は滅茶苦茶で、ひたすら寺を5.6か所回るものだった。前日私の家で夜通し騒いでいた友人たちはいつしかどこか寺の門の前で寝始めて、私だけが巡礼を続けた。妄想癖は治っていなかった。

9月を目前にしてようやく地に足がついた。旅程は半分になり、行先は札幌だけになった。北海道以外のことにも目が向くようになっている。今ではこれでちょうどいいのだと思う。

伸びてしまった学生の身分をどうやって使うのか、使えるのか、いまだ見当がついていない。構想ばかり大きくて、行動力はあまりに小さい。死ぬ間際に後悔しないかだけ心配している。ぼちぼちやる。

辞めたね

Twitterで政治的な発言はしないようにしている。めんどくせえし、フォロワーにめんどくせえ思いをさせてたくないからだ。しかし、ブログとなるとわざわざ読みにくるのが少しだけめんどくせえはずなので書いてみる。といっても、書くのは政治に関する愚痴だ。

アレが辞めて落ち込んでいる。アレを支持していたからではない。アレは本当に酷い総理大臣だったと思っている。理由はネットに出回っている意見とかねがね同じだろうからわざわざ書かない。その評価について議論を交換するつもりはない。

アレへの悪評は絶対的なものだった。アレが首相の座に返り咲いたのは私が大学に入ってからだ。高校生の自分が下した政治的な評価を全然信用していないので、言うなれば政治的に物心ついたときからアレは首相をやっていた。だから、他の総理大臣と比較のしようがない。特に政治の勉強などするわけではないが、それとなく政治的な意見を形成していく中で、アレへの不信感は日に日に募っていった。

私の周りは皆アレを評価していなかった。日本が滅ぶところが見たいのでアレには総理を続けてもらいたいという奇特な人間はいたが、それを評価とは言わないだろう。アレの在任期間が延びていくにつれ、無力感に襲われた。私の目にはアレの酷さが明らかなのに、その権力の座から降ろされることはない。私は周りの人間とアレをおもちゃにすることで気を紛らわせた。「ちんぽを見せろ」だとかなんとか言って。今思えばそうでもしないとやっていられなかったのだ。

そしてだんだん、アレが辞めればなんとかなると思うようになってしまっていた。そんな考えは全く馬鹿げた無責任だと考えていたのだが、実際心のどこかでそう思っていたことに今日気が付いてしまった。

だから、落ち込んでいる。アレは辞めるが、辞めてもなにも変わらないだろう。アレを支えてきた権力の構造はいまだ揺るぎない。政権交代を担うような勢力は形作られていない。市民は結局最後までアレに政権を担わせ続けていた。支持率の低下が間接的にアレの体調を悪化させたのかもしれないが、それを政治というのなら神権政治もいいところだ。

明日から政治がいい方向に向かうとは到底思えない。小さな希望を抱いていた昨日までの自分が馬鹿に見える。大喜利をやる気にもならないし、次の首相は誰かなんて話は心底うんざりする。本当にどうしようもないことを本当にどうしようもないほど実感してしまっている。

とりあえず今日はこうやって愚痴って明日からまたぼちぼちやります。

弟と映画

最近弟と映画の話をする。うちは頻繁に映画館に映画を見に行ったり、DVDなんかを借りてきたりするような家ではなかったが、大学進学で地元を離れた私たち2人はよく映画を見るようになって、好みも割と似ている。先日も他の家族が寝息を立てている中、なんとなくリビングに居合わせて面白かった映画の話をしていた。それでも、あまり踏み込んだ話はしない。家族に政治的な話や突っ込んだ批評ができないし、しない方がいいと思っている。

家を出てから嘘が増えた。些細なことでも、きっと分かってくれないだろう、何か小うるさいことを言ってくるに違いないと思って誤魔化すようになった。家の外を知らなかった私も家の中とは違う価値観に触れたのだ。

そんな居心地の悪い実家の一員だった弟もしばらくして東京に出た。バイトを始めて、煙草を吸って、本を読んだり映画を見たりするようになった。垢ぬけて、気遣いが増えた。少し大人になった。私が知らないだけで、他にも経験を積んで昔と変わったに違いない。

私は弟に共通の意識を覚えるようになった。家の外を知った者への共感だ。何を知ったのかは知りようもないし、知らなくていい。ただ、弟にも私と同じような家の外での色々ができたのだと思うと嬉しかった。

弟は昼まで寝ている。聞くところだいぶ夜型のようだ。ほかの家族は早く寝て朝早く起きろと責めるのだが、私は口がつぐんでいる。この家の外には夜起きているということがあることを私は知っている。私たちは夜中に起きて映画の話をする。外の世界を家の中でひっそり共有する。

きっと両親も家の外での色々を持っているに違いない。知ってみたいとも思うけど、知らないほうがいいこともあるのかもしれない。これまではそんな色々があることを想像もしなかったけど、みんな一人の人間なのだということがやっと分かってきた。どういう形でかは分からないが、一人の人間としてこの家にちょうどいい居場所をゆっくり見つけていけたらいい。

本当のお嬢さん

リビングでアマプラが見られるようになったので『ブラック・クランズマン』を観た。白人至上主義や警官による黒人への暴力などといった超ホットなテーマを、気勢を込めつつ痛快サスペンスコメディーに仕上げていてよかった。

全編を通して映画の悪影響ということが語られていて、それだけによい映画よいプロパガンダを作ってやろうという意気込みを感じる。黒人差別的という悪評でめっきり話題の『風と共に去りぬ』で幕を開け、クライマックスでは『國民の創生』を用いてKKKと黒人活動家たちとの対比を際立たせている。

風と共に去りぬ』というと、私の母の最もお気に入りの映画である。原作はもちろん原作者以外の作家が書いた続編などもコツコツ読んでいる。弟と2人リビングで映画を見ているとそんな母が帰ってきた。母は映画を見るでもなくリビングのテーブルに座っていたが、『風と共に去りぬ』のこともあって私は少し居心地が悪かった。

観終わってから、母は私たちになんとなしに「どうだった?」と聞いた。私たちがなんとなしに「面白かったよ」と返すと、母は「なんかおぞましかったわ」と呟いた。

母は暴力的な映像作品が嫌いだ。幼いころ「ワンピース」をテレビで見ていたら「なんでこの人達は戦ってるの?」と聞いてきた。この「なんで?」は質問ではなく、暴力に対しての拒否感を示す言葉だ。母は決して黒人のことをおぞましいと言ったのではない。『ブラック・クランズマン』で目に映る全体的な暴力にぞっとしたに違いないのだ。

これこそ『風と共に去りぬ』が批判される要因であり、『ブラック・クランズマン』の批判するところであろう。黒人差別さえも古き良き時代の思い出にして、ときに過激化してしまう反差別の訴えから目を背けてしまうことのなんとおぞましいことか。

しかし、私は母に何も言えなかった。母には私も含めた身の回りの生活が最も大切である。今日のお昼のニュースでも、一番の気がかりは福井で何人コロナが出たかということで、ウィスコンシン州のデモはなんとなく「おそろしい」地球の裏側のことでしかない。そうやって自分のことを頑張っている人に、「黒人差別の問題に意識を向けましょうよ」とは言えない。

いや、そういうことではない。差別を題材にした映画のことを色々書いておいて、母のことを散々悪く書いておいて、私にそれを家族に向かって面と向かって言う勇気がないというだけの話だ。家族と政治の話をするなんて考えられない。そんなもんじゃないのか。そうじゃないところがあるなど同じ星の話と思えない。

私の周りに白人至上主義者なんていないけれど居心地が悪い。組織に潜り込むのと同じくらい居心地が悪い。

近視眼

近視眼で見る夏はきれいだ。歯医者の椅子の上で眼鏡を外し、外の景色を眺めながらそう思った。植木の緑は背景となり、木漏れ日が真ん丸になって踊り出てくる。光が揺れるたび、風が吹くのが分かった。

私は保育園のときから近視で、小学校に入るときには眼鏡をかけていた。低学年のうちから眼鏡をかけていると「メガネザル」と仇名される。高学年になれば、眼鏡をかける人も増えてきて何も言われないのだが、低学年のうちは着用者も少なく、語彙の貧弱な小童はメガネザルがどんな動物かも知らずそのように眼鏡の子をからかう。自分の眼鏡と近視はあまり好きなものではなかった。

しかし、最近は自分の目が好きになってきた。去年、クリスマスのプレゼントを買いに行くバスで河原町通りを南下していくとき、私はふと眼鏡を外した。車窓いっぱいにイルミネーションや店の明かりが煌めいていた。印象派の画家たちは目が悪かったんじゃないかという説を思い出した。こんなに町明かりはきれいなのか。

考え事や人の話で頭がいっぱいになったときも近視は役に立つ。眼鏡を外して入ってくる情報をぼやかすと頭が明瞭になる。近視をうまく使えるようになってきた。

こんなことを言っていられるのは私がマイノリティではないからだ。日本人の3人に1人は近視らしく、10人に1人しかいない左利きのほうがずっと珍しい。私はもう「メガネザル」ではない。それに、眼鏡とコンタクトさえつければ視力は矯正できてしまう。目が少し悪くても「障害」とは呼ばれない。

少し前まで、私は自分のことを「ヤバいやつ」だと思っていた。「ヤバさ」が改善したのもあるのだが、人と関わり世の中のことが少し分かって、自分の立ち位置がなんの問題もなくどうにかなってしまうものであることを知った。嫌いだった近視は支障にならないどころか役に立つものになっている。

自分の大丈夫さかげんに後ろめたさを感じるようになって、その後ろめたさが全く無用な自意識であるとも感じる。今はなにも分からくて宙ぶらりんだ。ただ、自分の「見え方」だけは、それが凡庸なものであったとしても、自分だけのものとして慈しんでやろうと思っている。

当然ですが

『北海道の歴史』を読んだ。47都道府県の県史がそれぞれまとめてあるシリーズの一つで、程よく詳細に一通りのことが書かれていてよかった。

本州との交流について松前藩ぐらいしか知識がなかったのだが、本州と北海道は絶えず交流があったらしい。縄文時代の環状列石(ストーンサークル)は本州の東北地方から中部地方にかけて全国的にみられ、北海道でも道北を除いて各地で確認されている。『日本書紀』には阿倍比羅夫が北海道に遠征したという記事があるし、平安時代における北海道との交易を示す書物や出土品もある。北海道を通ってシベリア―サハリンから本州へ人類が入ってきたであろうことを考えれば当たり前だが、当たり前のことがしっかり分かった。

松前藩の時期の様子も面白い。シャクシャインの戦いのも前段にはアイヌ勢力間の抗争があるらしく、アイヌも一枚岩ではない。交易や漁を通しての搾取や虐待でかなりのアイヌが命を失った一方で、和人のもたらしたものを利用して経済的な独立を保ったり、和人に要求を通したりするアイヌもいた。

対する和人もそれぞれ立場が異なっていて、財政難に苦しむ松前藩は、交易等を請け負う商人に頭が上がらず、アイヌや出稼ぎ和人への搾取も見て見ぬふりをする。18世紀中ごろから、ロシア人が接近するようになっても、松前藩は幕府に事態を矮小に報告したり秘密にしたりして、政権側にも力関係がある。蝦夷地に様々な立場の人がいることも当然だ。

北海道の歴史を一通り学べたこともよかったのだけど、当たり前のようなことをなんとなくのままにしておかずにきちんと認識するためにも、色々勉強しておくことは大切だということが思い出せたのはよかった。ふんわりした世界を少しずつ確かな手ごたえのするものにしていきたい。

食違い

「あ、渋滞」

郊外の家電量販店からの帰路で、向かいの交差点に車が5.6台詰まっている。

「ここは町の中心だから」

誰かがそうつぶやくと車内に笑いが起きた。

実際ここは町の中心である。いや、中心だったというべきか。旧街道が通っており、それに沿って藩主の菩提寺の他寺院が立ち並ぶ。その門前町として、お菓子屋さんの多い商店街があって、そこから少し離れると駅がある。街道・鉄道沿いに町があったのだが、今では活気が減り、車道沿いにその役割を受け渡すという日本中どこにでもある現象がわが町でも起こっていた。

家に帰ると私はすぐに散歩に出た。歩いていると、鍵型道路がある。おやと思うと案内板が立っていた。「食違い」。敵の進行を遅らせたり見通しを悪くしたりする古い町の防備策である。そういえば、幼いころ誰か大人に教えてもらった気がする。

私はこの食違いを作った人を思い、次にこの案内板を設置した人と食違いのことを教えてくれた人のことを思った。近頃、こういう小さい歴史の跡に惹かれるようになってきている。よその町を歩いていても見つけると嬉しい。これを目指して訪れることはないし、金銭的な価値を生み出すことは無に等しいが、それを作った人と、彼らのことを忘れないように努めた人がいたことは何より尊いことに感じる。

どうやら私は家業を継ぐために地元に帰らなければならないらしい。地元にはなにもない。散歩を通じ慣れ親しんだ旧市街を出てそう思った。まだ都市の刺激を感じていたい。

ただ、都市に飽きたら帰ってきてやってもいいかなと思うようになってきた。どこにでもある歴史を残すのは、土地に縁がある人間だろう。せっかくある縁だから、帰ってきたらそういうことがやりたい。